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陰翳礼讃

  • Keikoic
  • 2017年10月2日
  • 読了時間: 4分

早、10月になってしまった。季節がすっかり変わった。今日は本当に爽やかな秋晴れだった。大学が始まってからこの方、慣れない勉強と、引越しの荷物のトラブルと、荷物が届いてからの片付けと、数週間苦しめられた酷い口内炎と、なんだか精彩を欠くまま、忙しくひと月以上過ごした。

先週末、New York City Balletの「白鳥の湖」を観に行き、心が洗われるのを実感した。その晩も最高に口内炎が痛かったけれど(変な表現!)、誘ってくれた何年振りかに会う友人と観劇後に呑み食いしながら、文字どおり口角泡を飛ばして話しまくったら、これぞ毒を出し切った印か、しつこい口内炎がようやく回復に向かった。(ありがとう、Sakuraちゃん!)

というわけで、晴れて痛みから解放された今週末、毎週の課題のペーパーを二本書き上げたところで、予想通りあっという間に日曜日の夜になってしまったけれど、やっとブログを書く気分になった。自分で選んで入ったのだから文句は言えないが、とにかく、慣れない分野のリーディングとライティングに追われる毎日を送っている。これに、ちょいちょいリーディングの内容を発表する番が回ってきたり、ファイナルに向けて、ミッドタームで自分のリサーチの内容を発表したりと、まあ、とにかく休む間がないのだ。こんな調子でファイナルまで乗り切れるのか心配だが、いっその事、早くファイナルを迎えて、その先のクリスマス休暇が来ればいいのに!などとも思う。

口内炎も医者に診てもらったが、この手の症状は診断のしようがなく、自己分析としては、よく言う、ストレスに対する身体の反応に違いない。確かに、引越しトラブルにもイライラしていたし、出される課題の量やペースの問題は大きいが、それ以上に、一気に触れることになったその内容に対する過剰なアレルギー反応だったのかもしれない。Design Studiesを、学問のディシプリンとしては歴史が浅いというその事実をもって、勝手に“今風”なことをやるものだと勘違いしていた。イギリスで生まれた“学問”であるからには、他の社会科学もそうだと思うが、これでもかというほどに西洋の哲学や思想のレイヤーの上に成り立っているのだ。

この先、自分の研究対象として何を選ぼうが、どいいうアプローチを取ろうが、そこは割と柔軟に認めてもらえるらしいが、とにかく一年目の今は、Design Studiesの礎をなす思想や共通言語、つまりアカデミアにおけるお作法を学んでいるようなところなので、一度は通らなければならない道なのだろう。

手に取る課題の読み物には、必ず哲学者や思想家が引用される。プラトンやアリストテレスにまで遡る。昔の偉人はそれほどに普遍的なことを唱えていたという証拠かもしれないが、デザインを語るのに、なんでそこまでーーー?と思うが、成り立ちとしか私には言えない。学問として正当性を得るとは、こういうことなのか。先日、ゼミで私が読み物の内容を発表した回で、教授が優しく「この部分はヘーゲルだと思うけど・・・」とフォローをしてくれたのだが、私は、引用を見落してたのかな?と思い、「ヘーゲル出てきましたっけ?」って聞き返したら、「いや、ヘーゲルの思想が現れてるでしょ」ということだった。「いやー、それは、無理やわ!!」と、内心、ツッコミ入れときました。

そんな中、読み物も提出物も多くて大変なのだが、内容が面白くて、気に入っている授業がある。これを語ると長くなるのでやめておくが、今週のリーティングの課題に、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』(英語では、In Praise of Shadowと訳されている)があったので、原語の文庫本をざっと日本語で流した。(こういうのを翻訳で読むと面白いのだが、今は時間節約のため、致し方なく。)谷崎は、面白い指摘をしていて、「もし東洋に西洋とは全然別個の、独自の科学文明が発達していたならば、どんなにわれわれの社会の有様が今日とは違ったものになっていたであろうか、と云うことを常に考えさせられるのである。」と。今の私の心境に、妙に響いてしまい、ブログを書くまで気分が軽くなったのは、口内炎が治ったからという理由だけでもないっぽい。


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